昭和44年04月14日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
色々にこの34節を頂いておりますが、今日私は「ここへ参っても神の言う通りにする者は少ない」とこう。一つどうでもその、少ない方の信者にならにゃいけませんですね。 殆どの信者が神の言う通りにしない、と言う訳です。ですからその、神の言う通りにする少ない方の信者に、一つならせて貰わにゃならん。そこでその神の言う通りにする、と云う事はどう云う事になるかというとですね。先が明るくて、楽しいです。
神の言う通りにするというかね、それはどう云う事かというと、矢張りまぁ教えの実践者とでも申しましょうかね、道の行者というてもいいかもしれませんね。いわゆる生活そのものが、お道の信心、お道の信奉者に相応しいやっぱ生き方。そういう生き方にならせて頂くと云う事。そこから言わば約束されるものはですね、先が楽しゅうなって来ると云う事です。先が見通しが明るい。
そりゃ成程「障子一重がままならぬ人の身」で御座いますから、先はどうなる事やら分からん。けれどもね、そのけれども、そのどうなるか分からんのだけれども、有難い事にしか、良い方にしかならんという見通しなんです。いわゆる先が楽しいんです。久留米の佐田さんの所の、あの恵介君が、もう何ヶ月になりますかね。冬の寒中の修行期間からだったでしょうか。毎日一日欠かさずにあぁしてお参りをして。今日はもう家におんなさいとでも言うたら、あの泣き出してしまう。どうでも参る。
それこそもう教えを、とにかく分かろうとも思われんのだけれども、まぁ御理解、難しい御理解の、そのポイントになる所をピシャと何時も掴んでおる。まだ小学校の一年生ですよ。そしてその、生活の上に、いわば子供なりの生活の上にです、信心する者はこうなからにゃいくまいが、ママ、パパ、こうじゃろうがというて、返ってそのお父さんやらお母さんが教えられる位。
先日なんか、僕はどうしても大きくなったら金光様の先生になるて。して僕はどうしても勉強する。もう沢山勉強して、そのお道の信心を世界中にその、まぁ話して回れる位なね、そのおかげを頂きたいというて言うという。それこそ、私はまぁ両親の身に成って見れば、先が楽しかろうと思うですね。その何故かというと、子供ながらとても出来ん、出来ん、普通では出来ない修行が、子供ながらも出来ておる。言う事する事もです、ちゃっとこうわきまえて行きよる。
教えを頂くその、何というでしょうかね、その理解力と言った様な物が、この子はどの子らよりも優れて、強いと。そう言う物があるですから、先がやっぱ楽しいです。先が明るい。だから是は子供だけの事じゃない、その自分の事出もそうなのです。信心なしよるけれども、教えは身に一つも付いて行きよらん。信心のないもんよりも、むしろ汚い自分であったりする場合が多い。教えは身に付いて行きよる、いわゆる、神の言う通りには一つもしよらんならです、そこに伴うものは不安である。
こげん信心なしよるばってん、おかげ頂ききるじゃろうかと。先の見通しというか、先が明るく、楽しゅう。私はそういう信心させて貰わにゃいかん。只今どういう修行中と言われてもです、どういう修行させて頂いておってもです、それが生き生き、打ち込みがいがある、手応えがある、それが修行であれ、信心であるならです、先が楽しいはずなんだ。私は、今日この34節からですね、その先が楽しめる信心。
神の言う通りにしたからというて、目の(めぎざん)に今直ぐ自分の思う事、思う以上に、例えば目に見えるおかげになるという事ではなくてもです。こう言う風に、信心を身に付けて行きよれば、先々がおかげになると。子供が孫が必ずおかげを受けると。という明るい見通しというか、それが楽しゅうなって来るという信心。是途中に大変素晴らしい事が色々、神の一言は千両の金にも替えられぬ。
有難く受けて帰れば、と仰っておられる所何かは、そのおかげと云う事ではなくて、神の一言は、千両の金にも替えられぬ徳と仰る。舟にも、車にも積めん程の徳と仰る。ですから、この辺の所もあるですけども、只今申します、「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない」という一番初めの、この書き出しの所とです、一番最後の所「心の内を改めることが第一なり神に一心とは迷いのない事ぞ」とこう。神様の言うて下さる事、教えて下さる事が段々身に付いて来る事によって、その楽しゅうなって来ると。先が楽しゅう成って来ると。
それはいよいよ楽しゅうなって来る。と云うことの為に、一つ「心の内を改めることが第一なり」と言う所に焦点をおかねばならん。いよいよそれがかっこたる楽しみに、いよいよ楽しいものになる。自分のね、改まると云う事は自分が変わって行くことが楽しい。これは自分が変わって行くことだけが楽しいというのじゃない。自分がこの様に変わって行きよる事がです、いよいよおかげが受けられるという楽しさ。自分の変わって行く事の楽しさもあります。
愈々確信的なものがある「神に一心とは迷いのない事ぞ」と。一心と云う事でももう愈々本当な意味においての一心が出せれる様になる。中々一心というものは稽古しなきゃ出るもんじゃないです。稽古です「神に一心とは迷いのない事」。昨日久留米の櫛原の教会今年が75年の記念祭が、この月の24日に、ここの大祭よりも4日遅れてある訳ですが。そのあちらにも真愛会という手続きの先生方ばかりの会が御座います。
私共も、まぁその末席を汚してる訳ですけれども、真愛会の会長から手紙が来て。それに、今年、この度の記念祭は、色んな記念事業と言った様な事ではなくてですね、真愛会一体となって麗しい、内容豊かな記念祭のおかげを蒙りたく、ご尽力の程をよろしくお願い申し上げます、と。と云う事が書いて御座いますが、その焦点となるものは、何処かというと、親教会のごひれいを仰ぎ、それぞれの教会の体質改善に信心の充実に努める、と云う事を焦点にしてあります。教会の体質改善。
是はもう盛んに最近言われる事ですね。教会の体質を改善しなければいけない。内当たりはもうおかげ頂いておるから、体質改善せんでも良いと言った様な、パッとこう読みながら、そんな感じがしたんですけれどもね、そうじゃないやっぱりより良いおかげを頂く為には、もっともっと素晴らしい体質改善がなされなきゃいけない。それには先ず私自身の体質改善。信奉者一同の矢張り体質改善が必要である。
昨日13日会が終わりましてから、ここで御祈念をさせておる。なら御用が終わってから、しばらく信心共励があって、そして、最後にここで御祈念をさえてもらう時に、私が頂きます事が、今度の「体質改善」と云う事であった。ここでは例えば「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」と言った様な、一つの信心理想というものがあります。桜の花のパーッとこう、満山桜の花で、と言う様なその華やかなおかげが受けたい。是はもう誰しもが願っておる事。
けれども、この桜の花の信心っていうか、それは、結局矢張り散りやすい。華やかなおかげだけでは。ですからそれをいよいよ徳にし、または長続きする事の為に、一つ梅の花の様な辛抱強い信心が、桜の花の様な性格の信心の中に育って行かなければならん。中々例えば、熱しやすい人は冷めやすいとこういう。熱しやすい人はもう人の真似の出来んごたる修行でんパーとするかと思うと。パッと冷え、冷えてしまう。そういう人が、今度は信心辛抱梅の花の様な、信心がそれに加わって行く。
しかもどこまでも素直という信心をですね。柳のような素直さというものを持たなければ、だからこの合楽のおかげというのは、非常にこう桜の花的だと。華やかである。けど華やかなおかげというのは、誰でもが願っておる。けれども、散る事はいやだと。ならば梅の花の信心が身に付いて行かなきゃならん。柳の様な素直さの、持った信心に成らなきゃ成らないと云う事に成る訳です。
それで是はもう私自身の信心を振り返りて見ましてもです、確かに桜の花の様な信心ですけれども様々な、昨日の特別奉修委員の方に対する御理解じゃないですけれども、私は本当にそれを実感するんです。私の様な者がですねおかげの受けられる筈はないとです、大体は。もう大体こん位な信心な何処んでん沢山あるとじゃ。けども何処の人よりも、何処の教会よりも、私がおかげを受けておるという事実はここにあるんです。
私の様な者がおかげの受けられる筈はないのに、事実はこうしておかげを受けておると言う事はです、私が何時難儀に支えられておるからだというお話申しましたですね。私はもう何時もその難儀に支えられておるんです。言わば桜の花の様にパッと散りたいごたる時も随分あるて。辛抱しきれんやった時もあるけれどもです何時も難儀が、難儀を抱えておりますから、そのよんどころなしに辛抱しなければ居られなく成って来る。
言わば桜、性根は桜の花の様な性根だけれども、辛抱しなければ居られない程に、次々と難儀を私は抱えておると云う事がです、現在の合楽の私はおかげである、私のごたるもんが大体おかげ頂ける筈はないとじゃん。けども、私には何時も、その難儀というものが私を支えておる。
その難儀様のおかげでです、言わば何ていうかね、へこたれたりですね、そこを好い加減にする訳にはいけない。辛抱強さというものは大体、性根やらないけれども、辛抱しなければおられないと言う様にです、何時も難儀があるとこう。難儀を抱えておると。その難儀様のおかげで辛抱させて頂いきよったら、最近では辛抱するその事が、この頃は有難うなって来たから、是はいよいよ間違いないと云う事になる訳でしょうが。
梅の花の信心はなかったけれども、辛抱させて頂いておる内に、その梅の花の信心が自分のものに成って行きよる。初めの間は泣く泣く辛抱であったのが、この頃は有り難く辛抱が出来る様になって来ておると云うことがです、桜の花の信心に、梅の花の信心が伴うて来よると云うこと。
言わば私の桜の花的な信心から、体質改善が出来て行きよる。梅の花に桜の花的なものは、もう自分で努めなくても、性根がそういう風に、華やかですから、もう是はちゃんと自分に備わっておるもの。自分には辛抱強さがかけておるけれども、何時も難儀というものが私を、言わば鞭打ってくれる訳です。
ですから、泣く泣く辛抱していきよったら、その辛抱しておると云う事が実は有難い事だと、この頃分かって来た所に、私の信心の値打ちがあるという、まぁ値打ちはないけれども、あるというならそうだと私は思うんです。 それから、是は私の性根の中に、もう本当に小さい子供の時から、自分ながら馬鹿んごたると思う程にですね、私はあの素直な感じがするんです。もう本当に右むいとけといきゃ、右ハイ。
左向けちいや、ハイというてその、そのハイって言わなければ、その居られんというかね、その位に、まぁ言わば素直なものを自分は頂いておるとこう思うんですけれどもです。そういう素直さと、辛抱強さと、華やかなその桜の花の様な者がです、こう一つにこう何ちいうかね、ミックスされておるというか。その中で欠けておったものの、梅の花の信心が桜の花の体質から、梅の花の体質に、体質改善が出来ていきよると云う事が、有難いと最近私思うのです。
そこんところを、今日私はね、「心の中を改めえることが第一なり」とおっしゃる、その言葉で。まぁ真愛会でこう言うておられる、教会の体質改善と云うことは、まず教会長である私が、体質改善しなければならない。そこから、皆さんの体質改善がなされなきゃならん。皆さんが、どう言う様なものが自分には強いか。性根の中にはどういうものが一番かというと自分に欠けておる物の所に取り組んで。私はおかげを受けて行かれなればいけない。と思うのです。
「神に一心とは迷いのないことぞ」と愈々迷わんで済む信心。それは先が楽しい楽しい見通しと。所謂改まって行くと云う事、神の言う事を聞くと云う事。教えが自分の身に付いて来ると云う事。そこに例えば出来んなりにでもです改まる事、本気で教えの行者になろう。教えを身に付けて行こうという、願いを強く強く持たせて頂く事によって、先が楽しゅう成って来ると云う事。
その先が楽しゅうなる信心。こうやって信心しよるけれどもおかげ頂ききるじゃろうか。先はどうなるじゃろうかと言った様な、もしものがあなたの心の中にあるとするなら、あなたは教えを守ろうと努めていないからだと。本気で改まる事にあんたが努めていないから、その様に不安定な生活をしなければならんのだ。心は何時も、ちょっと人がどうか言えば、もう直ぐ迷う様な事にすらなり兼ねないのだと。
「神に一心とは迷いのないことぞ」とこう仰るが、私共が教えに取り組ませて貰、改まる事に一心に努めておらなければです、いかに私は金光様をと言よってもです、言よってもです、そういう信心がなされて行きよらんと、必ず迷います。何かのそのちょっと不信に出会いますとです、ちょいと直ぐ迷うです。
ですから、迷いのないことぞ、と仰っても、今日私が申します、神の言う事は道で落としてしまう様な信心では、迷い安くなる。又改まる事に努めていなかったら、先に対する所の楽しみがない先が不安である。そういう意味で今日はこの34節の、一番初めの所と一番最後の所をです取分け大事にしたい。「ここへ参っても神の言う通りにする者は少ない」皆帰ってから自分の良い様にする者が多いのであります。
ですから、ここんところを、少ない方の信者、神の言うとおりにする信者にならせて頂かなきゃならん。神の言う通りにするというは、教えを本当に自分のものにして行く生活が出来て行く事なの。それをいよいよ確固たるものにする為に、心の中を改まる事が第一だと仰るのですから、一つ本気で体質改善に勤めなければならない。
自分で自分ながら、それこそ変わり果てておる、有り難い意味合いにおいて、変わり果てて行く自分が楽しゅう成って来るという信心。そこにはです、迷わんで済む。一心と定められるおかげが受けられるのです。今日の34節から、そこんところを一つ大事にして行く信心を頂きたいと思います。
どうぞ。